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室津街道とは−1 |
| 幾多の西国大名旅人、特に金毘羅参りの庶民が通った「
室津道」
山陽道から分ワかれ
船場校区から手柄校区へと入る、手柄山から向かいの甲山
、この間を抜け南西へと走っている。昔手柄付近は「伊和の里」と呼ばれ、宍粟の伊和一族が住んだと言う。室津道は山陽線と交差し、西延末へと抜けている。甲山には元禄14年(1701)姫路城主本多忠国が寄進した甲山神社が山頂に在る。新幹線は胄山裏を高架で走っている。 |
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室津道の痕跡を探す事は困難−2 |
| 西延末の室津道道の両側に民家が
立ち並び、室津道の痕跡を探す事は
出来ない。室津道を辿ると各集落に寄りながら通った事が判る。町坪構居跡を探したが判らなかった、地元で聞いても知る人に出会う事はなかった。時代が変ったことを肌で感じる、開発が進み遺跡が取り壊れると共に
関心が無くなりつつ有る。室津道は山陽本線に
沿いながら英賀保へ出る、そのまま西へ進み、山崎へ入りやがて夢前川へ突き当たる。 |
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暴れ川として恐れられていた夢前川−3 |
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暴れ川として民衆に恐れられていた夢前川幾多の洪水に悩まされたであろう、今は両岸をで囲まれ暴れ川の想像すら出来ない夢前川となっている。
山崎渡しに常夜灯があり、その側に碑文が掲示されている。弘化3年(1846)と比較的新しい、建立の発起人、「角本武右衛門・吉田常右衛門・山沢孫兵衛・他」書かれている。この渡しを琴平もうでの旅人が往来したとも。現在はその南側に才崎橋が架けられ、交通の役目を果たしている |
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暴れ川を鎮護する地蔵菩薩−4
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| 対岸に「才の地蔵」は暴れ川を鎮護する為建立した地蔵菩薩である。行者「玄達」がこの話を聞き、村人の幸せを祈念して建立したと言う。河川改修前は川縁に在ったらしい、道路と川の改修で現在の位置に祭られている。暴れ川らしい伝承である。 才の地蔵付近は公園化され、ベンチやバス停も在りり、地蔵菩薩にお参りするお年寄りも多く、線香の煙の絶える事は無い。室津道はこの前を通り夢前校区から広畑校区へ入る。山裾の室津道の分かれ目に道標を見つけた。 |
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道標もた交通事故に遭っている−5
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| 見つけた道標、タバコ屋さんの店先、「右、たつの、びぜん」「左あぼし、むろつ」と刻まれている。深く埋められていて年代不明、タバコ屋さん女主人は言う。道路の直ぐ側に在って車が数度接触した、転倒した度に埋め直された、今度は大型トラックがバックで当り、下の方から折れた、少し位置を変更して深く
埋めコンクリートで固めた。道理で年代部分埋められ読めない、道の直ぐ側に在る事から何回も交通事故に遭って居るらしい。龍野に出る道は山陽道と合流する道かも知れない、左網干、室津と書かれた道標室津道はここから南ミナミに下がり西へと 向かっている、広畑校区の西端小坂の集落へと入る、小坂集落は古い家並み中を室津道通っている、やがて菅原道真を祭った「菅原神社」の前を通る。 |
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菅原神社の前の室津道−6
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| 「菅原神社」前の室津道、この菅原神社、菅原道真が九州へ左遷される途中、暴風雨に遭い、海の平安を祈念して手彫りの像を流したと伝承されている、漂着した木像を小坂の村人が拾いこの地に安置してお祭りしたと言う。菅原神社の屋根に乗せられている瓦、子供の悪戯で壊れたものも在るが、珍しく手のこんだ由緒ある瓦が乗せられている。 |
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非常に珍しい郡境石−7 |
| 菅原神社の境内に郡境石が置かれている。この石は東汐入川小坂付近の改修工事の際、偶然にも川の中から発見された、2枚の板石からなり、頭部がV字形に刻まれ、飾磨郡・揖保郡の境に埋められて居たらしい、使用された年代は不明だが、市内では非常に珍しい文化財であるようだ。 時代は遡って、荘園の境界を示す「傍示石」が勝原の方でも発見されている。やがて室津道は東汐入川を渡り広畑校区から大津校区に入る。 |
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日本回国地蔵−8
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| 大津校区の西土井集落には「日本回国地蔵」祭られている、碑文、僅かに「享保」の文字が読み取れる。現在この広場は緊急避難場所と指定され、車等を置かない注意書きも目につく。西土井は「西土井構居」と歴史書に記されている、天正8年(1580)秀吉は英賀城攻略に西土井を攻め陥落させたと言う、一部砦の構えを持っていたのかも知れない、城主は「赤松八郎左衛門」と言われている。室津道は西土井から南に下がり西に向かっている、やがて大津中学校に突き当たる。 |
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室津道の道標−9
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| 室津道の道標、この道標は新しく最近建てられた物らしい、右にひめじ、左むろつ、と書カかれた自然石である。中学校の運動場を斜め西に通り、網干へと抜けている。この付近の室津道は、1b巾の農道である、この道を利用する人を殆んど見かけない。奥に見えるのが中学校の学びやである、運動場には学生の姿も見える。
網干への道には、多くの史跡が残されている、「魚吹八幡宮」や小さな社が道筋に在る。開発が進み痕跡を探す事は困難に成っている、道はやがて網干に入る。 |
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網干は歴史の古い町−10 |
| 網干は歴史の古い町、街並みがそのまま残されている、写真は「大覚寺前」の室津道大覚寺は大きなお寺、本堂裏には多くの墓碑が立ち並んでいる。大阪夏の陣に豊臣方に与力、池田輝政に自害を迫られ自刃した一族の墓碑も並ぶ古いお寺である。網干には
河野鉄兜の弟、東馬が起こした「誠塾」、郷土の若者を教育した誠塾、東馬死亡と同時に閉塾した、「異人館」「善慶寺」の開祖は明応元年(1492)と言われている、本堂裏にはマリア像も彫られ、東馬の墓も在ると言う。 |
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「境橋」今も完全な姿で残る−11 |
| 「境橋」、今も完全な姿で残る石橋である、真中の柱に境橋と刻まれている、車の走る道路にこんな遺跡が残されている。新在家と興浜の境、江戸時代龍野藩(脇坂家)飛び地の丸亀藩(京極家)の境を示す石橋である。「室津道は此処まで」後は次の機会に。網干川に架かるコンクリートの基礎、明治40
年に開通した龍野電気鉄道の橋げたと思われる、網干〜龍野嘴崎を結ぶ電気鉄道であった、この事実を知っている若者は少ない。 |
| 参考資料広報ひめじ・網干史誌・姫路市史等。 |
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室津街道とは−12 |
| 幾多の西国大名旅人、特に金毘羅参りの庶民が通った「 室津道」
山陽道から分ワかれ 船場校区から手柄校区へと入る、手柄山から向かいの甲山 、この間を抜け南西へと走っている。昔手柄付近は「伊和の里」と呼ばれ、宍粟の伊和一族が住んだと言う。室津道は山陽線と交差し、西延末へと抜けている。甲山には元禄14年(1701)姫路城主本多忠国が寄進した甲山神社が山頂に在る。新幹線は胄山裏を高架で走っている。 |
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網干~岩見−13
室津街道を往く−続編完成 |
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御津町の図書館で郷土史を探したが室津道の文書は無かった、役場の総務課や教育委員も当たるが的確な指示は得られなかった、古老にもお聞きしたが無駄であった。先人たちが歩いたと思われる痕跡は残念ながら探す事は出来ない、開発が進み室津道の確定は不可能だ、ここを通行したであろう想定は出来るが確定出来ないし、物証も無い。室津へ上陸して旧山陽道へ向かった通行者と、再び岩見に降りてきた旅人とに別れるようだ。網干から岩見へ向かい、更に室津へ向かう室津街道を大まかに赤線で表示。西国大名や金毘羅参り旅人、朝鮮通信使、シーボルトも通行した事が「江戸参府記」へ記されている。残念ながら網干〜岩見の間は確定出来ずに終わった。詳細は不明だが昨年(2001)朝鮮通信使の服装で御津町朝臣付近を歩く催し物が有ったらしい。 |
| (黒線部分は明治新道)
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岩見〜揖保川町−14 |
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岩見の室津道は一本道である、現在拡幅工事が行われ岩盤を削り取っている、真上を250号線が走っている、250号線と平行して走り直ぐに分かれて揖保川町へ向かい馬場地区にはいる、写真は揖保川町への分かれ道。 |
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「江戸参府記」に地名が記録されている、那波、金剛山、浦部、河内とか、シーボルトは(1786)天明六年・天保十二年付近の村々の様子を克明に記録しているようです。 |
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馬場地区から室津道へ−15 |
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馬場地区から嫦峨山(じょうがやま)室津道に入る、ダイセル工場の側を抜けて入って見た、登るに従い夏草が道を覆い道幅が判らず危険を感じUターン場所を探した、格好の場所を見つけ車を降りて足で道幅を探る、何回も切り返し車を下に向けた。写真は揖保川町馬場地区から登る「室津街道」である。 |
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馬場地区の標柱−16
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この標柱は比較的新しい、室津へ上陸し嫦峨山を超えてきた室津街道の延長線上に在る、比較的新しいことが少しの疑念が残る、室津と相生を指示している。シーボルトは(1786)天明六年と天保十二年の「江戸参府記」の中に、地名を記録している、那波、金剛山、浦部、河内など書かれている。
室津街道は「室津の有志の方」「揖保川町の有志の方」がいろいろ調査されている様だ、素人の私が参考にしたい詳しい記事もあり。
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室津側からの室津街道入口
−17(明治新道) |
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手前の広い道は250号線車の停止している道が入口、向こうは大浦海岸である、入口は勾配の緩やかな入口、250号線に沿って室津に進み墓地辺りからまた山に登っている。この道も少し入ってみたが夏草が道にはみ出し登れなかった。図書館で教わった明治新道らしい。この坂道が屋津坂で峠に鳩ガ峰があり昔は茶屋が在ったらしい。車の向こうが明治新道らしい、250号線に合流後、再び山に登っている。 |
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旧室津街道室津からの基点か?−18 |
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広い道路は250号線である、ちょうど室津漁港上ぐらいか、道路の右、海側に喫茶店があり東を向いて撮った、中央のコンクリート坂道を登りきった所に「室津道」立て札が在る。道路から100m.ばかり登ってみた、こんな急坂な道を殿様の駕籠を担いで登れるのかとても不可能に思えた、道はまるで獣道、狭い九十九折り道である、この道を西国大名が通る? とても考えられない道、少なからず疑念が沸いてくる。 |
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室山城址−19 |
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室津は利権が絡み合い何度か戦場になっている、時の権力者が室津を確保するために争奪戦を演じた様である。最初は足利尊氏と新田義貞、時代は下って赤松氏と浦上氏との戦いがある。当時から室津には大きな権益が存在した様である、赤松家の執事であった浦上氏は親子三代室津を離さなかった、浦上氏は主家である赤松家に「差し出た振る舞い」が多く、当主である赤松義村を室津に幽閉し暗殺した下克上の時代である。龍野城主赤松政秀は浦上氏婚礼の夜、手筈通り襲撃した、書物には黒田官兵衛の娘と浦上政宗嫡子晴宗の婚礼と書いている、少し年代が違うように思う、その娘は襲撃の際、武器を執って戦い最後は自害した事になっているが、次男の忠宗に嫁ぎ「久松丸」生んでいる。宇喜多直家は密かに沼城で養育し、後年、備前天神山城を攻める正当性を創る為、押し立てている。 |
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室山城天守閣の跡−20
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20年前に訪れた事がある、天守閣跡、二の丸三の丸跡は綺麗に開墾され、梅ノ木が沢山作られていた、また、小規模ながら天守閣の石積の稜線が残っていた、天守閣より下がった平地に五輪塔が沢山あった。2002年の夏訪れてみれば、天守閣跡は写真の様に夏草が生い茂り、天守の敷地を空けて他の敷地は住宅が立ち並んでいた、例の五輪塔跡も住宅地に変わり影も形の無くなっていた |
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宝篋印塔(ほうきょういんとう)−21 |
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室津を越えて250号線を西に行く「赤松の鼻」と言う突き出た半島がある、室津から見れば大浦湾は対岸である、対岸の250号線の側に写真の「宝篋印塔」がある、夏草に覆われともすれば見過ごしてしまう。御津町の教育委員が調査した詳細は次の通りである。 |
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宝篋印塔の碑文・元和○年八月十九日 |
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大○○○○○○之零位 |
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○
○○○建○○之 |
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○三○○○○○○ |
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(○は読取れなかった文字) |
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この宝篋印塔は山の上に在ったと言う、調査と共に道路側へ下ろした様である、播磨鏡には赤松氏の戦死者の供養に建立したと言う。大浦海岸の喫茶店で聞いた話は「悪殿様の墓」伝えている、理由は夜襲を掛けた戦法が卑怯に見えるらしい。室津城下の人たちはこの悲しい出来事を忘れるために、桃の節句を旧暦の八月一日延ばしたと言う、八朔のひな祭りとして今も続いているという。(室津追考記より) |
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