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  歴史を散歩−朝日山「大日寺」
散歩しました 平井氏
徒歩での時間は、傾斜のきつい道からで、ふもとから5分ぐらいで大日寺に到着します。車でもお寺まで行けます。
JR網干駅の北東に丘のような小さい山がある、この山が朝日山と呼ばれている、正月も6日目、運動不足解消にデジカメ携行で登山を試みる、登山と言ってもたかが100m.に満たない山である。
近年この山はお年寄りの散歩銀座となって居る、緩やかな車の通行できる坂道が舗装され、お年寄りの健康維持に利用されている。今日も好天に恵まれ大勢のお年寄りが鈴なりになって登ってくる、中にはお年寄りとお孫さん見られる人も、それに中年や若い人も混ざっている。この山には登山道が3箇所もある、東からの登山道、山の裏側(北)からの登山道、南から登れる登山道に車が登れる道路も併用されている。何れも道標の仏像が建てられ道案内をしている、以前にも数回登った記憶があるが仏像の道案内に気が付かなかった、歴史を探る意識を持つと色んなものが見えてくる、道中の宝篋印塔なども散見されるが完全な形のものは少ない、頭部が紛失したもの、足元に転がって在るもの、ちょっと寂しい。この山を含め周辺を公園化されている。
 
JR山陽線網干駅付近から朝日山を望む
 
旧道を登りながら振り返ると素晴しい眺めである、瀬戸内の海まで一望でき、網干の市街を見ることが出来る。振り向くきっかけを作ってくれたのがJR網干駅へ減速する電車の音だった、その電車はマンションの向こうに吸い込まれる。
マンションの向こう側に「JR網干駅」が隠れている、朝日山登山道の中腹、木々の切れ間から振り向いて写す。
 
朝日山からJR網干駅付近を望む
 
朝日山には「大日寺」と言う真言宗のお寺が建っている、旧道を登る中腹に山門のお堂が在る、山門をくぐり登る人は少なく登山者に出会わなかった。山門の右端には石柱が傾いていた、写真に見えるように「しめ縄」を架けてあった、鉄柵に手を掛けながら急な石段に向かう、若干石段が狂って波打っている。石段の中途から山門を見渡すと少し手入れが遠のいているように見えた。
 
山の中腹 大日寺山門
 
大日寺縁起」「播磨鏡」には、
お寺を開いたのは法道仙人だと言う、法道仙人はインドから来た坊さんで、本尊を一緒に持って来たものだという。この仏像は始め家島の堂崎に安置してあった。仙人は空鉢を海上に飛ばして、往来の船に供米を乞うていたと言う、網干の大覚寺も含めた「伝説」が残されている。
鎌倉時代、大日寺には、心寂上人と言う智識のあるお坊さんが居た、
30余りのお堂や伽藍が立ち並び盛況を極めて居たようだ。天文年中(15321555)火災に会い、お堂も宝物も丸焼けになったと言う。心寂上人とは法然上人(津山誕生寺)の弟子で信寂上人事らしい、この地へは招かれて来たと言う。「太子町誌」
「太子町誌
(元文元年(1532)には鵤の班鳩寺(現太子町)と朝日山の大日寺が争いをしている、原因は不明だがこの争いで(130名)も双方に死者が出たという、両寺とも大勢の「僧兵」が居たのではと想像される。大日寺の周辺を見ると庫裏跡と見られる平地が数箇所も点在する。神仏は平和を願うもの、宗教の違いや宗派が違えば、昔も今も世界中で争っている何とかなら無いかなぁー。
天文〜元亀(
15501572)にかけて度々戦火に巻き込まれている、その度に大日寺は全焼して再建されている。その後も元文・元亀、龍野城主「赤松氏」と太田城主「広岡氏」(思われる)の戦争に朝日山が舞台となったと言う。
 
朝日山「大日寺」の本堂
 
説明書きには「大日寺十三重塔」と書かれている、しかし、今は十一重塔になっている、以前お参りしたとき十重塔なっていた、不思議の思い若いお坊さんに尋ねると、「偶数」塔は見たことが無い何故か、若いお坊さん曰く、そうなんですか、塔は奇数なんですか、逆問いかけに面を食らった。
 

中段から急に細くなっているこの辺り欠損箇所と思われる塔の先端も欠損しているように見える、下段に小さな仏像。

 
 
姫路西ライオンズクラブ標識
 

境内の急斜面に建てられた(本堂に西側)「五智如来石仏」、今にも転んでくる錯覚に襲われるほど傾いている、石仏の安定に修理が施された跡が残されていた。参拝者のお年寄りが一様に立ち止まり手を合わせて行く、しばらく眺めていると先ほどのお年寄りが帰ってきてまた手を合わせている、御百度の所作を繰り返し拝んでいる事が判った。
この仏像は龍野城主「赤松政秀」の寄進だと言う、仏像に赤松政秀の痕跡と年代を探ろうと思い仏像の裏に回った、しかし、文字らしきものを見つける事は出来なかった。龍野城主「赤松政秀」の寄進と書物に明記されている、寄進した年代を想定してみると、龍野城主赤松政秀は、元亀元年(
1570)庚・午(54歳)で逝く、となっている、仏像寄進はそれ以前である事が判る。
五智如来石仏の裏、一段高い場所に「聖天堂」が祭られている、神なのか仏なのか判然としないお堂だった。その隣に大きな「宝篋印塔」が立てられている、年代を見ると二次大戦の慰霊であることがわかった、地震か何かで崩れ落ちたのであろう先端が足元に置かれていた。

 
「五智如来石仏」
 

資料・・・「広報ひめじ」・「太子町誌」・姫路市教育委員会「文化財見学シリーズ」・中世の太子町史第四章「戦国動乱期」・網干の歴史「魚吹(ずぐりえ)の里」

 
車が通れる道に舗装されている
 
JR網干駅と朝日山大日寺付近
 

 

 

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